- 端午の節句。
どうも、テン子です。
ということで、今回も「たんごのせっく」をテーマにした、「特別コラム企画」やります!
端午の節句・・。
「こどもの日」。
「ちまき」や「かしわ餅」を食べる日。
「鯉のぼり」とか「金太郎」とか「兜」とかを飾ったりする日。
「端午の節句」の意味知ってますか?
知ってる人も、知らない人も、とりあえず。
テン子さんが調べましたので勉強したまえ!!
■そもそも、端午の節句って?■
端午の節句。
現在は、「子どもの日」として、日本の行事になっていますがもともとは中国の習わしでした。
紀元前3世紀(約2300年前)の中国の楚で始まったとされています。
この「端午の節句」、現在の形になるまでに、いろいろな飾りや習わし、逸話が生まれています。
〜中国で生まれた「端午の節句」〜
今から約2300年前、中国の楚という国でこの習わしは始まります。
その頃の中国では、5月5日になると、ショウブや、ヨモギで作った人形を飾っていました。
そして、お酒に刻んだショウブを入れて飲んだり、ショウブを門にかけたりしていたそうです。
人々はそうやって、邪気を祓ったり、魔除けの行いとしていたのです。
そして、中国にはちまきを食べるという風習もあります。
これは、中国のある逸話。
屈原という政治家の死を悼み、湖の魚に死体を食べられてしまわないように、もちを投げ入れたのが始まりとされている・・ようです
実は、「夏至にちまきを食べる」という習わしが記録に残っているようで。
ほかにも、5月は「悪月」5日は「悪日」とされ、病魔の予防のためにショウブが用いられた・・など、いろいろあるようです。
〜日本の端午の節句〜
中国で生まれた「端午の節句」。
中国では邪気払いや病、毒気を追い払うという願いを込めて行っていた風習。
現在の日本では、男の子の健やかな成長と出世を祈願して行われる行事です。
どのような流れがあって現在の形に、変わっていったのか追っていきましょう?
日本に入ってきたのが奈良時代。
当時は、日本でも体調の崩しやすい季節の変わり目に、病気を避けるため、あるいは災厄が起こらないように・・という願いを込め行われていたそうです。
「端午の節句」には、ショウブ湯に入ったり、薬草を積みに行ったりしていました。
こうした、日本独自の風習と中国の「端午の節句」の行事とが一緒になって日本の文化として残っていきました。
〜もともと女性のための節句だった〜
日本では、古来より、「五月忌み(ごがついみ)」という、悪月、物忌み月とされた時期がありました。
昔は田植えをするのは主に女性の仕事でした。
田植えが始まっる前に早乙女(田植えをする若い女性)だけが、ショウブや、ヨモギで屋根をふいた家の中に閉じこもります。
早乙女たちはショウブを漬けた酒を飲んだりして、身を清め、穢れを祓い、田の神を迎える儀式が行われていたのです。
また宮中の皇族たちは、薬玉(薬を丸く固め飾り物にしたもの)をつくりお互いに送りあったりヨモギなどの薬草を配ったりしたそうです。
そして、病気や、災いの厄除けとして行っていたそうです。
〜鎌倉時代・・。男の子のための節句になる〜
鎌倉時代に入ると、武家社会になっていきます。
そして、今までの宮廷での行事だったものは徐々に廃れていきます。
しかし、武士の間では、「菖蒲(ショウブ)」が「尚武(ショウブ)」と音が同じことから、尚武にちなんで「端午の節句」が盛んにおこなわれるようになります。
尚武・・つまり武を尊ぶ。
そして、ショウブの葉は、剣を連想させ、武士たちの間に「尚武の節句」としても広まっていったのです。
〜江戸時代に5月5日が男の子の日として定着〜
江戸時代に入り、上巳(桃)の節句(3月3日)を女の子の日、端午の節句(5月5日)を男の子の日として、庶民の間に定着していきます。
また、桃太郎や、金太郎、鯉のぼりといったお飾りも飾られるようになるのです。
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